オール1が名古屋大学に合格した宮本延春さん

 

 中学1年の通知表が「オール1」、「九九」も言えなかったが、猛勉強の末に名古屋大学理学部に合格した宮本延春(まさはる)さん(37)(愛知県豊川市)が、数学教師として、母校の私立豊川高校の教壇に立っている。中学卒業後は大工をしていたが、ビデオで見たアインシュタインの理論に衝撃を受け、小学生の勉強からやり直した。宮本さんは、落ちこぼれだった自分を振り返りつつ、「目標を見つける手助けをしてやりたい」と、生徒たちに熱い眼差しを注いでいる。
 1年生を前にした2005年4月の最初の高校の授業で、宮本さんは、黒板に教科名を書き並べた。国、社、数、理、英……。そして各教科の下に「1」という数字を書き足した。
 「これが何のことか分かるか」。生徒たちに問いかけるが、反応はない。「おれが中1だった時の通知表。オール1だったんだよ」
 「うっそー」「なんで先生になれたの?」。静まり返っていた教室が、にわかに活気づいた。

 小学生時代。気が弱く、体も小さかった宮本さんは、格好のいじめの標的だった。筆箱や上履きが隠されるのは日常茶飯事。休み時間に後ろからけられることや、足に画びょうを刺されることも少なくなかった。
 中学に進み、最初にもらったオール1の通知表に、「やっぱり、おれはバカなんだ」と自分を見放した。義務教育を終えた時の通知表も、「2」が二つで、残りはすべて「1」だった。九九を全部言うことができなかった。
 中学卒業後は大工の道に進んだが、親方の指導は厳しく、すぐに手が飛んできた。理解者だった母親を16歳の時に病気で亡くし、17歳で大工をやめた。その翌年には父親も病死した。
 だが、20歳を迎えたころから人生の風向きが変わり始める。地元の建設会社に就職。後に結婚することになる純子さんと出会ったのも、このころだ。純子さんから、一本のビデオを手渡されたのは23歳の時。家に帰って再生すると、「光は波か、粒か」をテーマに、アインシュタインの理論を解説したテレビ番組が録画されていた。画面に吸い込まれ、我に返った時には90分の番組が終わっていた。
 「もっと知りたい」。味わったことのない気持ちでいっぱいになった。「物理学を勉強するには、大学に入らなくては」。直感的にこう思い、その一歩として定時制高校を受けようと決意した。
 夢への道は、九九のマスターから始まった。小学3年用のドリルを購入。中学3年までの数学と英語を独りで学んだ。「難しい知恵の輪を簡単に解くのを見て、やればできる人なのではと思ったんです」と、純子さんは振り返る。
 自宅に近い豊川高校の定時制に入学したのは24歳の春。物理学科のある名古屋大に志望を定めた。

 毎朝5時に起床し、出勤時間まで勉強。帰宅後も午前0時まで机に向かった。高校3年の3学期。大学入試センター試験で8割近い点を取り、名古屋大の理学部を受験した。
 合格を知った時のことは忘れられない。自宅の郵便受けに入っていたレタックスを恐る恐る開き、その中に自分の受験番号を見つけた。「不合格者の番号が掲載されてるのでは」と何度も確認した。
 1996年4月、27歳で名古屋大に入学した。
 学部と大学院で過ごした9年間。宇宙物理学を専攻し、素粒子などの研究に没頭した。在学中に結婚、長男も生まれた。初めは研究者になるつもりだったが、満ち足りた日々の中で別の思いが芽生えた。
 「自分の経験が一番役立つ仕事は教師ではないか。落ちこぼれだったから、生徒がどこでつまずくかがわかるし、いじめられた時の悔しさもよくわかる」
 母校に電話をかけ、教壇に立ちたいと願い出た。

 理科と数学の教員免許を持つ宮本さんは、週14時間の授業を担当している。
 「三角形の内角の和は何度だい」。授業はしばしば、中学の内容に戻る。「先生の話は分かりやすい」と生徒たちは口をそろえる。
 つまずく生徒もいないわけではない。しかし、九九もできなかった自分に比べれば、間違いなく、全員がより大きな可能性を持っている。
 本格的に教壇に立つようになって1年。宮本さんは「毎時間、全力投球してきたけれど、生徒一人ひとりの個性に応じた指導をするのは、予想以上に難しい。まだまだ勉強は続きます」と話す。
 「子どもたちが目標を見つける手助けをしてやりたい」。23歳で初めて人生の目標をつかんだ新米教師の、それが新たな目標だ。

(2006年3月5日 読売新聞)