●僕の単純化思考●
■11月6日(土)
「ワイドショーについて」
東奥日報社説より
04/08/26
テレビは良くも悪くも、現代社会に強い影響を与える。特に、刺激的映像を伴った報道は、世論や子供に決定的影響を及ぼす場合が多い。その分、報道責任も重大であり、安易な報道姿勢は許されない。関係者には十分、認識してほしい。
テレビ報道は生ニュースからニュース特番、ドキュメンタリー、エンターテインメント中心の企画ものまで、番組の間口は広く、切り口は多彩だ。その中で案外、重要性を見逃されがちなのがワイドショーとは言えまいか。
振り返れば、ワイドショーの歴史は約四十年。立ち上げ当初の一九六〇年代前半、放映時間は朝に集中、昼や午後へ次第に進出し始めるのは六〇年代後半だ。今でこそ聞き慣れた新職種、芸能リポーターは七〇年代半ば初登場した。
八〇年代半ばには、ロス疑惑を含む事件報道が過熱、九〇年代半ばには、ワイドショーとニュースのボーダーレス化、相互乗り入れが一気に進行、ニュース報道も重要なジャンルに浮上した。
その後、幾多の変遷を経て、最近は政治家の積極的出演も目立つ。「テレビのワイドショー化」「ワイドショーの政治化」などの指摘に代表されるように、内容が徐々に変質しつつある。
しかし、英国などテレビ報道先進国と比較した場合、多くの局が似たり寄ったりの内容、切り口になり、マンネリ化しているのが日本の特徴。金太郎あめを見ている感が否めない。実際、同一テーマや映像の繰り返し使用、うり二つの放送順−といった例が少なくない。
司会者は単に間をもたせる存在にさえ見え、各局の独自性は極めて薄い。チャンネルごとに放映スタイル、内容の全く異なる英国とは天と地ほどの歴然とした差があるのだ。
例えば、皇室や有名芸能人、スポーツ関係者、文化人などの入退院、刑事事件、政治家、高級官僚のスキャンダル…。全局が同じ対象の突撃取材競争に走る。視聴者の眉をひそめさせる各種行き過ぎや、いわゆる「メディアスクラム(集団的過熱取材)」現象を時に起こし、批判を浴びる。見苦しいことおびただしい。
「もっと説得力ある報道を、どうしてもっと平静にできないのだろう。言論の自由の悪用ではないか」。こうした批判さえ一部には根強い。
これとは別に、一種の露悪趣味とも言うべき悪質行動もあった。オウム報道に関連し、某キー局のワイドショーが坂本弁護士取材テープを教団側に見せていた件は記憶に生々しい。報道としてあるまじき行為だ。関係者はこうした過去の汚点を忘れてはならない。
難解なニュースの内容を易しくお茶の間に届ける−。
ワイドショーの本質は確かに、社会的重要性を十分帯び、番組制作に真剣に取り組む価値も十分あると言える。しかし、テレビ報道の重要な一翼を担う以上、社会規範と視聴者心理に即した大胆な改善が必要とは言えまいか。
崇高な任務を正しく成し遂げるためには、映像の奇抜さ、リポーターやコメンテーターの知名度や攻撃的姿勢に依存するのではなく、関係者一同の深い取材力、人間洞察力で真実をもっと掘り下げ、現状の沈滞を打破し、質を深める必要がありそうだ。
そうした一段と厳しい努力と視聴者意識重視が相まって、テレビ報道番組として、ワイドショーに立派な存在価値が初めて生まれてくるのではないか。
通り一遍、表面をなぞったり、既報を繰り返したりするだけの報道では、残念ながら、本来の価値が半減すると言うほかない。視聴者のためにもワイドショーの良質化を願う。