■8月16日(日)
結婚生活3時間
「3時間の夫婦」礎で対面 轟さん、情報提供求める
2008年7月3日 琉球新報
「たった3時間の夫婦だったが、彼がこの世に存在していたことを伝えていきたい」。
沖縄戦戦没者の名前を刻んだ糸満市摩文仁の「平和の礎」で11年前、夫武廣さんの名前と対面したことをきっかけに、結婚式当日に召集され、沖縄戦で死亡した夫について轟アサ子さん(83)=神奈川県=が調べている。
2日に来県したアサ子さんは
「沖縄の人たちは彼が存在したことを名前を刻むことで後世に残してくれていた。私も生きている間に彼のことを知り、伝えることが役目」
と話し、夫につながる情報を求めている。
1944年2月、アサ子さんと武廣さん=当時(26)=は東京で式を挙げた。
披露宴のため、アサ子さんの家に戻ると玄関に2人の憲兵が召集令状を手に待っていた。
武廣さんはタキシードを国民服に着替え、そのまま中国・奉天へ。
アサ子さんは見送りのため花嫁衣装をもんぺに替えた。
「生きて帰ってきてください」
「そうする」。
お見合い結婚だった2人はそれまでほとんど言葉を交わしたことがなく、東京駅に向かう車中で交わしたこの会話が最初で最後になった。
挙式から別れまではわずか3時間だった。
武廣さんは奉天から満州・東安省へ。
資料によると、東安省で輜重(しちょう)兵第二四連隊に配属され、同年8月に沖縄本島に上陸。
第二四師団に所属していた。
アサ子さんが戦後受け取った戦死の知らせには45年6月に糸満市の壕で死亡したとされている。
たった3時間の夫婦。戦後の混乱…。
戦死の知らせを受け取った時には「お国のために死んだんだ」としか思わなかった。
その後アサ子さんは再婚。3人の子どもに恵まれ、孫もできた。
武廣さんのことを忘れることはなかったが、特に何かをしたわけでもなかった。
アサ子さんを変えたのが97年9月。
夫の名前が刻まれているとは知らずに訪れた「平和の礎」だった。
52年前に別れた「轟武廣」の名前。
刻まれた名前をなぞると涙がこぼれた。
「見ず知らずの沖縄の人が夫の存在を残してくれていた。
3時間でも妻だった私が何もしないわけにはいかない」
あれから11年。再び沖縄を訪れたアサ子さん。
「どんなことでも彼につながることが知りたい」。
武廣さんがどのような人生を生き、どんなふうに死んでいったかを見詰めるアサ子さんの決意は固い。
情報提供は轟さん 046(889)1723。
(玉城江梨子)
8月16日 フジテレビ
「エチカの鏡」で放送。