人生を苦しめるもの 「取り柄がない」
(平成26年4月22日 武田邦彦先生のブログより)
もともとそれほど苦しい人生でもないのに、人は自分自身で不幸になろうとします。
その不幸には根源的なものもありますが、至極、簡単なものが多いのです。
その一つに「人には誰でも取り柄がある」があります。
取り柄が大切と聞くと「そうだな」と思います。
さらに「算数ができなくても、野球ができなくても、その人の良いところが必ずある。
それを探さなければ」と言われるとさらにそう信じてしまいます。
ところがなかなかそれが見当たりません。
そこで「自分探し」などが始まり、さらに迷い込むのです。
そう、この言葉には不幸を招く二つのトリックがあるからです。
まず「取り柄がある人は少ない」こと、
第二に「取り柄は幸福になるのに役に立たない」ということです。
取り柄の例として、野球のイチロー、歌の美空ひばりなどが言われますが、彼らは100万分の1ぐらいいるかいないかの人で「ありえない」に属します。
それに一人のイチローが出る裏で、何万と言う高校球児がいて、そのうちものすごく運の良い選手がプロ野球に進みますが、ドラフト1位で入団し20歳で精神的疾患がもとで夭折した選手のように「野球が素晴らしい人で幸福になる人」というのは「野球ができない人で幸福になる人」より少ないかも知れません。
もちろん芸能界でテレビに出ている人は、確かに才能(タレント)はありますが、成功している人はごくわずかで、不幸の山の中にほんの少しの幸福があるという状態ですから、これも「普通の社会」と比較したら「幸福になる人の割合は少ない」と断定的に言ったほうが良いと思います。
つまり、もともと「取り柄」がある人は少なく、その「取り柄」が活きて幸福になる人は「普通の人が幸福になる割合」よりどうも少ないのです。
なまじ取り柄があるために、それにこだわったり、人よりその部分が優れてはいるけれど、頑張っても成功するまでには至らず、本当は成功しなくても良いけれど、本人は残念でたまらないという状態になります。
野球ができない人は野球ができる人を羨み、地方大会で勝てないチームは準決勝までいけるチームを羨み、一度は甲子園に行きたいと願い、甲子園にでればせめて一勝したいと必死になり、途中で負けると悔し涙にまみれて甲子園の土を掘り・・・と際限がないのです。
結局、笑うのは4000千校16万人の高校球児のうち、1校だけと言うことになったりします。
さらにプロ野球のドラフトで1位に指名される人は12人。
それでも、期待に添わないということで暗い人生を送るか、時によっては精神的に打撃を受けて夭折することすらあるのです。
「取り柄」の第二番目の欠点は、他人に打撃を与えるということです。
私がよく、「もしクラスで1番から20番の子供がいなかったら、21番の子供がお母さんに褒められるだろう」と言います。
素晴らしい選手がいるから補欠で悔しい思いをする若者がいるし、社長がいるから平社員、教授がいるから助教授は教授になれない
・・・世の中で「優れた人」というのは所詮、「他人との比較」ですから、その結果、「他人を痛めつけている」ともいえるのです。
取り柄が悪いとまでは言えませんが、取り柄があるから逆に苦労をしたり、他人を圧迫するために取り柄を使うのは良いことではありません。
それでは人間は何が大切かと言うと、
1) 生きていること、
2) 他人のためになること、
3) 額に汗して働くこと、
の3つでしょう。
1)だけでも十分ですが、もし力が余れば他人のために何かをする(デディケーション)、それでも力が余れば、3)をして他人のお金を当てにしないということです。
人生最大の貯金は「優しいお母さんの行為」(無償の愛)だと、私は10年ほど前の本に書きましたが、経済学もそこまで行くと本当に社会のための学問になるでしょう。