2015年04月24日

武田邦彦先生のブログより

 

 

母はそれで良い

 

 

不治の病に伏した母は近親者にもらした・・・

 

「私はまもなく死にます。

あの子は母親を失うのです。

子供が母と別れて悲しむのは優しくされた記憶です。

憎らしい母なら死んでも悲しまないし、その方が新しいお母さんにかわいがられるでしょう。」

 

母は見舞いに来た子に八つ当たりし、叱り、そして死んだ。

 

子は母を深く恨み、それが心の傷となって社会の闇に沈んでいった。

やがて彼が目覚めたのは偶然にこの母の言葉を耳にしたときだった。

涙が止まらなかった。  

 

 

 

(言葉は伝承と違い、一部変えています。)

(平成27年4月19日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(この話をネットでさがしてみた)

作家・西村滋さんの少年期の実話だそうです。

      ↓


 

少年は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。

殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。

その母親が姿を消した。庭に造られた粗末な離れ。

そこに籠ったのである。結核を病んだのだった。

近寄るなと周りは注意したが、母恋しさに少年は離れに近寄らずにはいられなかった。

しかし、母親は一変していた。

少年を見ると、ありったけの罵声を浴びせた。

コップ、お盆、手鏡と手当たり次第に投げつける。

青ざめた顔。長く乱れた髪。荒れ狂う姿は鬼だった。

少年は次第に母を憎悪するようになった。

哀しみに彩られた憎悪だった。

少年6歳の誕生日に母は逝った。

「お母さんにお花を」と勧める家政婦のオバサンに、少年は全身で逆らい、決して柩の中を見ようとはしなかった。

 

父は再婚した。

少年は新しい母に愛されようとした。だが、だめだった。

父と義母の間に子どもが生まれ、少年はのけ者になる。

少年が九歳になって程なく、父が亡くなった。やはり結核だった。

その頃から少年の家出が始まる。

公園やお寺が寝場所だった。

公衆電話のボックスで体を二つ折りにして寝たこともある。

そのたびに警察に保護された。

何度目かの家出の時、義母は父が残したものを処分し、家をたたんで蒸発した。

それからの少年は施設を転々とするようになる。

十三歳の時だった。少年は知多半島の少年院にいた。

もういっぱしの「札付き」だった。

 

ある日、少年に奇跡の面会者が現れた。

泣いて少年に柩の中の母を見せようとした、あの家政婦のオバサンだった。

オバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。

 

死の床で母はオバサンに言ったのだ。

「私は間もなく死にます。あの子は母親を失うのです。

幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。

憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。

あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、死んだ母親なんか憎まれておいたほうがいいのです。

そのほうがあの子は幸せになれるのです。」

 

少年は話を聞いて呆然とした。

自分はこんなに愛されていたのか

涙がとめどなくこぼれ落ちた。

札付きが立ち直ったのはそれからである。