植村眞久(うえむらまさひさ)大尉の遺書
昭和期の海軍軍人(大尉)、特攻兵
『愛児への便り』
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。
私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。
素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。
素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。
私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。
お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段(靖国神社)へいらつしやい。
そして心に深く念ずれぱ、 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。
父はお前は幸福ものと思びます。
生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。
またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。
父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。
お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ
追伸、
素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。
素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。
<昭和三十五年八月ゝ十月靖國神社社頭掲示>
内地を出発する前夜、植村眞久は大村基地から東京の自宅に長距離電話をかけた。
妻に生後三ヶ月 の娘・素子の声を聞かせてくれるよう頼んだが、娘はにこにこ笑うだけで声を立てない。
彼は「お尻をつ ねって泣かせてくれ」と頼んだが、妻は笑っている娘にそれも出来ず、乳を含ませて飲み始めたところで 離すと泣き出した。
彼は電話越しに娘をあやし、やがて電話を代わった母親に
「子供は本当に可愛いも のですね。お母様たちのご恩を深く感じます」
としみじみ語ったという。
そして、昭和19年10月26日 神風特別攻撃隊大和隊、第一隊々長として出撃。
レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華
(享年25才)
父・眞久が散華してから22年目の昭和42年3月、素子さんは父と同じ立教大学を卒業。
4月22日 素子さんは靖國の社に鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が 見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。
舞い終わり友達から花束を 受け取った素子さんは、
「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」
と言葉少なに語ったとのこと。