電車事故で手足3本を失ったサラリーマンが語る「どん底からの復活」
10/5(月) 8:33配信
ベッドから這い出ようとして落ちた時に、手足を失った現実を知る
山田千紘さん(29歳)は2012年7月24日、電車との接触事故により、右腕を肘上、右脚は膝下、左脚を膝上から切断する重傷を負った。
当時20歳だった山田さんはケーブルテレビ会社の営業職として採用されたばかり。
仕事が楽しく、職場の付き合いも欠かさず充実した毎日を送っていた。
事故当日は体調がいつになく悪かったが、夜には会社の飲み会があった。
普段は酒好きの山田さんも、この日はなぜかまずく感じられ、飲むことができなかった。
だが、「先輩よりも先に帰るタイプではなかった」山田さんは終電間際まで飲み会に付き合った。
それが、事故に遭うまでの最後の記憶だ。
後日、警察に聞くと、山田さんは帰りの電車で眠り込んでしまい、自宅のある駅を乗り越し終着駅までついたという。
駅員に起こされた山田さんはそのまま終着駅のホームで寝てしまったが、その後なぜか立ち上がり線路に転落。
そこに最終電車が進入してきたのだったーー。
ここまでが、山田さんが動画でも語っている事故の経緯である。
それから8年後の2020年、事故と同月同日にユーチューブチャンネル「山田千紘 ちーチャンネル」を開設した山田さん。
ある日突然、手足を3本も失うという想像を絶する体験をしたにもかかわらず、それを明るく笑い飛ばす姿が大きな反響を呼び、2か月あまりで登録者数7万人に迫る勢いとなっている。
そんな彼にどん底から立ち直るまでの経緯と心の動きを伺いながら、その「考え方」の秘密に迫った。
「助かった命を無駄にするな」兄の言葉に救われる
――事故に遭った瞬間の記憶がないとおっしゃっていますが、事故に気づいた当初の心境についてお伺いできますか?
目が覚めると、最初は夢の中だと思いました。
利き腕の右手で目ヤニをとろうとすると、右腕の感覚は残っているのに、ないように見えたので「冗談だろ?」と思いました。
脚も同様で、しかも、切れた両脚の長さが違っていた。
自分の部屋のベッドではなく、病院のベッドなのはすぐわかったので、「夢にしてはリアルすぎるだろ」……と怖くなったのを覚えてます。
とりあえず夢うつつの状態のまま顔を洗いに行こうと立ち上がろうとしたら、そのままベッドから落ち、激痛とともに現実を突きつけられたのです。
「僕の手足はもうなくなった、人生も終わったんだ」というのが1番最初に思ったことです。
――「絶望のどん底」に落ちた時期は、どのようなことを考えていましたか。そこから立ち直るまでの思考の変遷過程をお伺いしたいです。
ICU(集中治療室)から一般病棟に移り、1週間ほどがどん底だった時期でした。
その時は本当に毎日毎日「死にたい」「誰でもいいから殺してくれ」と、助かったことに対する後悔ばかりで、ネガティブなことばかり考えていました。
変わるきっかけは、振り返ると色々ありましたが、家族や友人など周囲が今までと変わらない接し方をしてくれたことでした。
僕が変わってしまうことで、そういう人達まで変わってしまうのが1番怖かったのです。
じゃあどうすれば良いかと考えたとき、
「今までのように明るい自分に戻らなきゃな! よく考えたらまだ左手があるし、口があるから伝えたり話すこともできる。 目があるから見ることもできるし、耳があるから誰かの声を聴くこともできる。まだまだできることたくさんありそうじゃん!」
と、ポジティブに思うようになっていきました。
――周りの人にずいぶんと助けられたのですね。
その通りです。周囲の支えがあって、ここまでこれたのだと思います。
もし一人だったら僕は今この世にいなかったかもしれないし、感謝の念でいっぱいです。
ICUにいたときの記憶はほとんどないのですが、泣き崩れる両親の横で、兄が僕に「手足はなくなったけど、助かった命は無駄にするんじゃないぞ」と言ったそうです。
そのことを後に聞いて、ずっと胸に残っています。
「自分は手足が3本ないだけ。他は何も変わらない」
――しかし、手足3本を失う事故はやはり衝撃的な出来事だと思います。そこから気持ちを切り替えられたきっかけはなんだったのでしょうか?
直接のきっかけは、高校時代から仲良しだった友人たちが1番最初にお見舞いに来てくれたことが大きかったと思います。
彼らは病室で寝ている僕を見るや「なんだ元気そうじゃん」と言いました。
こっちからしたら「どこがだよ!」と思ったけど、結局彼は2~3時間もいて、今までと変わらずたわいもない話をしました。
そして、「じゃあな」といって彼らをエレベーターホールで送り出した時、そういえばケガの話を聞かれていないことに気づいたんです。
まるで、「ケガをしても俺たちの関係は何も変わらないぞ!」という、無言のメッセージをもらっているかのようでした。
すると、エレベーターのドアが閉まった瞬間から、涙があふれて止まりませんでした。
「病院ではなく、今までのように彼らとまた遊びたい!
このままじゃダメなんだ」と強く思いました。
その日は一晩中眠れませんでした。
そして朝を迎えたとき、カーテンから光が差し込み、ベッドに備え付けられたテーブルの角が光ったのを目にして、ハッとしたんです。
「自分は今まで、テーブルの下だけを見てもがいていた。
でも、見方を変えるとこれまで見えなかったものが見えるようになるんだ」と。
そこから気持ちがキッパリと切り替わり、「手足がなくなっただけだな」と思えるようになったのを覚えています。
そこから、社会復帰するまでのロードマップを具体的に描き始めました。
――実際に、どのように進めていったのでしょうか?
事故に遭ったときは20歳になったばかりで、22歳には必ず社会復帰したかったので、やるべきことと、それに必要な期間を逆算しました。
リハビリをいつまでに終わらせ、資格をいつまでに取得するか……といったことです。
そして10月にリハビリ施設のある病院に転院し、リハビリが1年かかると言われたところを半年で終わらせました。
そしてその日のうちに自動車の教習所に入所し、出所後に間髪入れず障害者職業訓練所に入りました。
そこで簿記とパソコン検定の資格を取得し、翌年には就職活動を開始していました。
自分の残された可能性に気づけたことは”チャンス”
――事故から2年も経っていませんね。すごく強いですね。
僕はもともと、なくなったモノを数えるのがあまり好きではないんです。
人はマイナスの数を数えがちだと思います。しかし、マイナスを数えるのではなく、どんなに小さくてもプラスの数を数えていくことが大切なんじゃないかと思います。
手と足を失ったことは確かに圧倒的なマイナスですが、命が助かったこと、生きていることが僕にとってはそれをはるかに凌ぐプラスでした。
そして、まだ左手が残っていたし、喋ることも、見ることも、聴くこともできた。
自分にはまだまだ出来ることがたくさんあって、終わりじゃない。
そういう自分の可能性に気づけたこと自体、最大のチャンスだと捉えています。
――心理学には「トラウマ後成長(Posttraumatic Growth)」という概念がありますが、事故後に成長を感じたり、強くなったと感じる部分はありますか。
周りへの感謝を自分の言動で表せるようになったのは、成長したかなぁと感じます。
親に対しては、やはり今までたくさん苦労をかけてきた上に、五体満足に産んでくれたにもかかわらず手足を3本も失ってしまって……とやりきれない思いがありました。
だからこそ、ここから強く成長して自分らしく生きることで恩返ししていかなきゃなと、強く思うようになりましたね。
あとは、やはりドン底を経験したことで、ちょっとした出来事では落ち込みにくいですし、そういった気持ちの面は強くなったのかなと思います!
「手足3本ないだけじゃん」と、本気で思っているんです。
――お弁当や料理など、日常生活の動画もアップされています。日常生活で不便なことは現在、ありますか?
日常生活の家事は一通りできるし、不便は特にありません。
物理的に難しいこと(電球の交換など高いところの作業)は当然できませんが、一人暮らしをして大抵のことは一人でできるようになったから不便に感じないのだと思います。
そりゃ当然、どの家事(掃除、洗濯、料理)でも人より時間がかかるけれど、それは仕方のないことだって上手く割り切れているんだと思います。
もともと健常者だったころに家事をやっていたとしたら、できたことができなくなってショックかもしれませんが、もともとやっていなかったことが逆に向上心が芽生えてよかったのかなと思います。
障害を持つようになってから気づいたこと
――現在は一人でお住まいですよね?
はい。就職をした22歳から今までずっと一人暮らしです。
最初は心配されましたが、親に負担をかけたくなかったし、何よりも自立したかったので。
――手足が自由に動かせた頃には気づかなけなかった事柄などはありましたらお伺いしたいです。
通勤のため電車に毎日乗っていますが、やはり周りを見て行動していない人が、すごく多いと感じます。
乗り降りする時も自分本位で人のことを押してきたりして危ないし、座席に座るときも一人分以上の幅を取ったり……。
そういったマナーが気になりますね。
――現在はどのようなお仕事をされていますか? 職場ではどのようなサポートがあるでしょうか。
最初はIT企業に障害者雇用枠で勤務し、転職して現在は航空関係の会社で一般社員として働いております。
障害者枠ではキャリアアップが厳しい側面もあるので、最初から一般職で応募しました。
仕事は、デスクワークを中心に経理業務等を、他の社員とまったく同じ待遇で行っています。障害があるからといって特別扱いされることは嫌なので、そういったことが僕にとっては一番のサポートであると言えます。
自分の経験を通じて、皆に勇気と元気を与えたい
――動画の反響で、印象的なものがありましたらご教示ください。
YouTubeを始めて2ヶ月と少し経ちましたが、ありがたいことに多くの方々が見てくださり、外出時にも視聴者に話しかけられたりするので、その時は皆さんのリアルな声援を聞けたりできて本当に嬉しいです。
動画のコメントでは、「人生観が変わった」など、視聴者の方に少なからず良い影響を与えることができていることを感じ取れて嬉しく思います。
――動画は毎日撮影されているのですか?
いいえ。週一本を目標に、平日で時間がある時に制作しています。
僕も土日は健常者と同じようにプライベートを楽しんでいますからね(笑)。
ユーチューバーの大半はビジネスだと思いますが、僕にとっては社会活動の一つなので。
――動画を通じて障害を持つ方や、悩んでいる方の励みになりたいという意図を話されていましたが、今後具体的にやりたいことや伝えたいことなどありましたらご教示ください。
海外では「モチベーショナルスピーカー」(編集部注:人々のモチベーションを上げ、変容をもたらす内容のスピーチを行う人)という職業を持つ方が多くいますが、日本ではまだ主流ではありません。
僕自身の経験や言葉を通して、1人でも多くの方に勇気や元気を与えて前向きになってもらう。
そんな手助けが出来るモチベーショナルスピーカーを将来的に目指していきたいです。
また僕のインタスタグラムは、先天性四肢欠損症のお子さんを持つ方もたくさんフォローしてくれています。
そのお子さんたちや、一般の方にも「手足が3本ない山田がやれてるのだから、自分にもできる」と思ってもらいたい。
意味のある怪我だったと感じていきたい。
そのために、YouTuberとしての活動はもちろんですが、ゆくゆくは本の出版や、全国での講演活動などを通じて、たくさんの人の笑顔に触れることで、僕自身も生きる価値や喜びを感じていければ嬉しいです。
【山田千紘】
1991年9月22日生まれ。2012年に電車事故で右腕、両脚を切断。
2020年7月24日「山田千紘 ちーチャンネル」を開設。アイスランドのOSSUR社の義足モデルも務める。
ツイッター: @chi_kun_cq22
インスタグラム: @chi_kun_cq22
<取材・文/安(HBO編集部)>
ハーバー・ビジネス・オンライン