「普通」を求める学校、部屋にこもった日々 演出家・宮本亞門さんからあなたへ
演出家 宮本亞門さん 65歳
演出家の宮本亞門さんは子どもの頃、「普通」とは違う自分を気にしてひきこもりに。
自分の存在を消すことばかり考えていましたが、大好きな音楽を聴くうちに「感動を多くの人と分かち合いたい」との思いがわき上がりました。
宮本さんは
「自分が思うほど周りは気にしていない。自分らしく好きなことをやる。それを一番大切にして」
とメッセージを送ります。
学校では「普通」求められ
「普通」という言葉に苦しみ、悩み始めたのは幼稚園の頃です。
実家は新橋演舞場前で、喫茶店を営んでいました。
店には役者や芸能関係者が出入りし、小唄や三味線がいつも聞こえてくる街で生まれ育ちました。
そんな大人たちに囲まれて育つうちに歌舞伎が好きになり、日舞を習い始めました。
ある日、砂場で遊んでいると、前日の発表会で付けたおしろいが首の後ろに少し残っているのを、とある子に指摘されたのです。
みるみるうちに友達が集まり、「男のくせに踊りが好きなんて気持ち悪い」「おかしい」とみんなから言われて。
ショックでしたね。
「自分が美しいと思うものは変なんだ。隠さないといけないんだ」と痛感させられました。
当時、両親は共働きで夕食は出前が多くて太ってしまい、それもコンプレックスになりました。
小学校時代のある日の通学中、バスの車内が混雑していた時に「この人が太っているから通れない」と言われたのです。
恥ずかしいしショックだし、「迷惑をかけている存在なんだ」とつらかったです。
僕は人見知りで、臆病なのです。
孤立するのも、嫌われるのも怖い。
学校では「普通」を求められるので、多くの子が好きなテレビ番組や芸能人には全く興味を持てなかったけど、作り笑いと相づちでしのぎました。友達はいましたが、話をしても自分の本心とは違うのでストレスに感じました。
放課後、茶道などの習い事をしに行ったり、好きな仏像巡りをしたりして過ごす方が、自分らしくいられました。
部屋にこもる日々 見つけた夢中になれるもの
集団生活が苦手だと見抜いた父は、僕を集団に慣れさせようと、寮のある高校への進学を薦めました。東京都内の高校でしたが、1年間限定でそこの寮に入ることになりました。
寮では朝5時に起床し、先輩の食事を作ってから礼拝堂に行き、学校に向かう。ただ目の前のことをこなしているだけでよいので、悩んだり考えたりする暇もなかった。
意外と嫌じゃなかったです。
でも、1年後自宅に帰ると、元通りに。
寮では考える時間がありませんでしたが、自宅では自由な分、考える時間がたっぷりあり、思い悩む日々が再び始まってしまったのです。
「普通」を求められるのに、自分はなれない。
周囲との違和感や自分を否定する気持ち、孤独感は大きくなるばかりでした。
個性が目立たないようにしなければと、いつも全身グレーの服を着て。自分の存在をいかに消すかを真剣に考えるようになり、ついには自分がこの世からいなくなればよいとまで考え、薬をたくさん飲んで自殺を図りました。
2年生になって3日目、部屋の内側から鍵をかけ、出なくなりました。
高校の担任や友達が家まで来て、「待っているよ」「学校行こうよ」と言ってくれましたが、「ごめん、行けないんだよ」と泣きながら謝りました。
窓のない4畳半の部屋にこもる日々の中で、10枚のレコードが救いでした。
音楽を聴くと、頭の中にその曲のイメージが鮮明に浮かぶのです。
クラシック音楽やミュージカル音楽のレコードを何百回も聴き返しました。
夢中になれるものが見つかり、「音楽を視覚化し、その感動を多くの人と分かち合いたい」。
そんな思いや夢がわき上がりました。
「どうせ」はやめて。大事なのは自分
僕が不登校になり、その原因や今後どうするかを巡って両親が激しくもめた日、母はついに僕に「学校に行かなくていい」と言ってくれました。
その交換条件が精神科の受診でしたが、そこで出会った医師のところに毎日通って話を聞いてもらううちに、「このままでいいんだ」「自分が思っているほど周りは気にしていない」と思えるようになったのです。
3年生から少しずつ登校し、人付き合いも改善されていきました。 学校ってつらいよね、しんどいよね。「普通」であることが求められるし、親や世間の意見や考えが、まるで正しい物差しかのように思えてくる。
でも、人が言った評価が正しいわけでは全くない。
大事なのは自分です。
自分らしく好きなことをやる。それを一番大切にしてください。
「どうせ」大人になっても、「どうせ」自分なんて、と僕もずっと思っていました。
でも、自分で勝手に決めつけないで。
誰にでも生きている価値と可能性があるのだから。
この記事は読売新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。