NHK
プロフェッショナル・仕事の流儀
2011年3月28日(月)放送
言葉のチカラSP
プロフェッショナルに勇気をくれた言葉
ヒットを連発する大手ビール会社の商品企画・佐藤章。
リーダーとして熾烈な競争の最前線に立ち続けてきた佐藤の胸には、1つの言葉が刻まれている。
入社16年目、佐藤は出向していた飲料メーカーで缶コーヒーの新商品開発プロジェクトを立ち上げた。専門家を集め、味やデザインに徹底的にこだわり、これまでにない缶コーヒーを目指した。
しかし、練り上げた試作品は役員から酷評される。弱気になった佐藤。そんな佐藤に部下の一人が言葉をかけた。
あなたの心の火を、信じています
この言葉に佐藤は奮起。市場調査を重ね、役員に再度プレゼン。ついに商品化のゴーサインを取り付けた。
佐藤は部下からの「言葉」をこう受け止めている。
「人間は上から言われたままにした方が楽じゃないですか。だけど、そういうことにめげない、屈しない勇気というか。1回や2回の失敗でくよくよするなという。覚悟を決める言葉になりました」
農薬や肥料に頼らず、初めて本格的なりんご栽培に成功した木村秋則。
それまでの苦難の中で出会った、忘れられない言葉がある。
家族が農薬による炎症に悩まされていた木村は29歳の頃、農薬をやめ、自然栽培の道を模索し始めた。発生する害虫や、病気との戦い。だが5年たっても、りんごは実るどころか、花さえも咲かなかった。生活費を稼ぐため、木村はキャバレーで呼び込みをやり、妻は料理に畑の雑草を使って食費を切り詰めた。
ぎりぎりの生活の中、木村は迷い続ける日々だった。
そんなある日、結果の出ない自然栽培に強く反対していた母が畑にやって来た。母は足下のじゃりを蹴りながら、あるひと言を木村にかける。
お前も、雑草や石ころのように、
強く生きていけばいい
つらくてもたくましく生きていけという母の励ましだった。
その言葉を胸に木村はもがき続けた。土を研究し、木の根が深く張る柔らかな土の畑を作り上げた。そして3年後の春、ついに畑いっぱいにりんごの真っ白い花が咲き、秋にりんごが実を付けた。
あれから23年。精一杯育ったりんごを見るたびに、木村は今も母からかけられた言葉を思い出す。
内戦が終わって間もないアフリカ・ウガンダをはじめ、世界の紛争地で難民のために奔走してきた難民支援のエキスパート、高嶋由美子。ある言葉との出会いが、今の高嶋を作った。
小さな頃から好奇心旺盛だった高嶋は海外に憧れ、高校時代、アメリカに留学。世界の真実を、自分の目で見たいと強く思うようになった。帰国後、就職活動に臨んだ高嶋はマスコミを志望したが、時代はバブル崩壊後の就職氷河期、ついに内定は得られなかった。高嶋は将来が見えなくなり、何週間もふさぎ込んで過ごした。
そんなどん底の時、出会ったのが華道家・勅使河原蒼風が書いた本の一節だった。
求めていなければ、授からない。
だからいつでも求めていなければならない。
ついに授からないかも知れないが、
求めていなければ授からないのだ
何事も、自ら求めなければ道は開けない。4年後、高嶋が選んだのは、難民の支援を行う国連機関の仕事だった。
あの言葉は、いまも高嶋の背中を押し続けている。
「自分の中に自信がない時に力をもらっています。道がすごく長くて険しいけど、どんどん前に行ければいいなと思います」
落語界を背負う当代屈指の名人、柳家小三治。
71歳の今も、高座に上がる時、常に同じ言葉を自らに言い聞かせる。
仕事に慣れてはいけない、初めて話すと思え
小三治は言う。「慣れてしまって、緊張感というか集中力というか、そういうのが疎(おろそ)かになる。実は、それがずっと私のテーマですね」
おもちゃの企画開発の世界で、その名を知られる、横井昭裕。
社会現象にまでなった「たまご型ゲーム」をはじめ、個性的なおもちゃを次々と企画してきた。ヒットを生み出す、秘密が横井の座右の銘にある。
私は失敗しない
なぜなら成功するまで止めないからだ
イルカやアザラシなど海のほ乳類「海獣(かいじゆう)」を専門に診る海獣医師の勝俣悦子。
日本で初めてイルカの人工授精に成功するなど、その仕事は海外からも注目を集める。
未だ謎に満ちた生き物を相手に格闘する勝俣。ある言葉を胸に刻み、海の命と向き合う。
出来ることは、あきらめないこと
新しい検査技術を駆使した電子基板の検査機で、世界トップクラスのシェアを誇る、ベンチャー企業の経営者・秋山咲恵。
先の見えないビジネスの世界で、決断を求められるのが経営者の仕事だ。
そんな世界で生きる秋山を支える言葉は、尊敬する科学者の言葉だ。
未来を予測する最善の方法は、
自らそれを創り出すことである
「つまり最初から正解があるものを選ぼうとするのではなく、選んだ道を正解にする努力を一生懸命やると。前に進む勇気をくれる言葉だと思います」と秋山は話す。
脳の血管に出来るコブ、脳動脈瘤(りゅう)。破裂すれば半数が死に至るこの脳動脈瘤治療の第一人者が脳神経外科医の上山博康(62)だ。手がける手術は年間およそ600。その腕を頼って全国から患者がやってくる。覚悟を持って患者に向き合う上山の原点には、恩師から言われた1つの言葉があった。
上山は29歳の時、生涯の師と仰ぐ医師と出会う。伊藤善太郎、全国的に知られた脳卒中のエキスパートだ
「患者の思いに応えるのが医者の仕事だ」と自分のやり方を貫いていた伊藤。ある日、若い上山に言った。
批評家になるな、いつも批判される側にいろ
この言葉を上山は次のように受け止めている。「常に批判される側にいろと言うことは、常にアクティブに仕事をやめるなと。患者にとって何が必要か、患者の求めるものを与える、これが医療の本質なんだ」
維機械を販売する会社の社長、片山象三(50)。
片山が開発を引っ張った糸作り機械は、大幅なコストダウンを実現すると評され「第一回ものづくり日本大賞」を受賞した。
機械の完成の陰には、片山が先輩から受けた一つの言葉があった。
30代前半の頃、安い中国製品に押され地元の繊維業界が疲弊、片山の会社の業績も下がる一方だった。片山はすべてを投げ出したい気持ちに駆られていた。
そんなある日、尊敬する染色工場の社長から言われた言葉がある。
自分のためでなく、他人(ひと)のために働け
片山は地元のために何が出来るのか必死で考え、そして、中国と渡り合うため大幅にコストを削減する新しい機械の開発に乗り出した。
億単位の借金をし、知り合いの工場に頭を下げて実験に協力してもらい、睡眠時間を削って片山は走り回った。実験は何度も何度も失敗した、台風による大水で、機械が水没したこともあった。それでも片山は、先輩からのあの言葉を思い出し、自分を奮い立たせ働き続けた。
そして、開発開始から3年後、ついに念願の機械が完成した。
自身を突き動かしたあの言葉を片山は、こう考えている。
「本来、怠け者の自分を働かせてもらえてる言葉やね」
治療の手立てがないと告げられた終末期のがん患者の人たちと長らく向き合ってきた、がん看護専門看護師・田村恵子。
絶望の淵に立たされた人々を見続ける中で得た、一つの言葉がある。
ひとは、たとえ、地の底に立たされても
はい上がる力を持っている
必ず、希望を見つけられる
日はまた昇る
日本はプロフェッショナルの国だ!